下記のパンフレットは、まちづくり大潟事務局(上越市大潟区コミュニティプラザ1F)又は潟町駅や道の駅などに置いてあります。

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パンフレット(マップ面)

パンフレット(説明文面)

①小山作之助庭園

大潟町中学校地内にあり、作之助の胸像が建立。「夏は来ぬ」の歌碑の周囲には卯の花が植えられ毎年7月には花が咲きます。

②潟町宿開駅記念碑

宿場は、街道沿いに2里(約8km)程の間隔で設けられ、人や馬で貨客を次の宿場まで継送ったり、無人の休憩や宿泊を賑わっていました。 黒井~柿崎間は難所であったため万治3(1660)年藩主が幕府に請願し潟町宿の開駅が許されました。

③小山作之助資料室

大潟コミュニティプラザ2階。小山作之助は郷土が生んだ明治・大正の音楽家。数々の小学唱歌を作り、代表作に「夏は来ぬ」「漁業のうた」等があります。こちらでは作之助の作曲家としての生涯を礼賛し展示しています。

④火防地蔵尊

潟町宿をたいそう気に入り長く滞在した巡礼がなくなりました。村人は哀れみ街道脇に墓を建てて地蔵を安置しました。文政2(1819)年潟町大火の前夜、地蔵の化身が火事を予言してふれ回り、村人は救われました。以来この地蔵は「火防地蔵尊」として敬われ春秋2回の祭礼があります。

    

⑤明治天皇行在所碑

明治天皇が明治5年から全国各地を御巡幸されました。大潟地区を通られたのは、明治11(18787)年9月。現在の田中家で休息されました。

⑥市神社

明治3年「もより市」が開設されました。 地元のほか、近隣の村々からも農産物や藁工品、小間物など多くの品が持ち寄られ賑わいを見せました。 街道脇には反映を祈願し市神社が祀られました。昭和47年、経済の近代化により市は幕を閉じました。

⑦西念寺

万治3(1660)年に潟町宿が開駅、その際、西念寺は九戸浜にありましたが、潟町住民の強い要望で現在の地に移りました。

⑧小山作之助の墓

作之助は苦学の末、作曲の傍ら音楽教師として教鞭を執りました。数々の名曲を世に残し昭和2(1927)年生涯を終えました。 作之助を慕い地元の有志が妻松子の書による「長思碑」を小山家の墓地に建立しその功績を伝えています。

⑨米大舟発祥の地碑

米大舟は、江戸時代に凶作の年に当時酒田の弁財船の頭目亀田伊兵衛が、義援米を運んでくれ、これを祝った際の踊りや歌を「米大舟」として語り継いだもとと言われています。現在も米大舟保存会により語り継がれています。

⑩六地蔵尊

その昔、潟町に宿場が開設された頃、北国街道から別れ米山道を少し入った所に火葬場がありました。 亡くなった人々の霊を慰めるため、そこに六体のお地蔵さんが置かれていました。現在は場所を移したが今も「厄除けお地蔵さん」と親しまれ大切にされています。

⑪米山道道標

頸城富士の名で知られている霊峰米山は、信仰の山として近隣はもちろん、遠方からも山頂の薬師参りで賑わいました。 米山道は潟町宿で北国街道(県道:犀潟柿崎線)から別れ、朝日池湖畔を通り、米山さんへと続いていました。 なお、令和3年上越市地域活動支援事業で修復を行いました。(写真は修復前のものです)

⑫どんどの池

万治元3(1660)年、北国街道の宿場が潟町に開設された頃、宿場の東端にどんどん湧き出る泉が発見されました。村人はこの水を切り石で囲った井戸へ引き込み、各家へ桶(担い)で運び生活に役立てていました。泉は人々の生活と共にありました。

⑬ジムリーナ

令和2年に上越市体操場として建設。東京オリンピックの際は、ドイツ体操チームの合宿地として利用されました。